ターロック・オカロランという吟遊詩人は、ハープを携えてアイルランド中を旅して歩いた。その歩みそのものが、アイリッシュ音楽の伝播に直結した。懐は旅先だが、その卓抜した歌心と演奏力は、多くの支援者を生み、盲目の天才を支えた。彼のような存在を日本に求めるのならば、松尾芭蕉だろう。彼は矢立をもって、俳句という形で日本の情景を書き留めた。簡潔にして、分かり易い表現で、地方の名跡を筆で表現する才能は、一か所に留まり家を構えることなく、日本を弟子の曾良と隈なく歩み、今でいえば地方創生の礎を築いたので、漂泊の詩人と讃えられた。推測だが、彼らの残した業績は、予想よりもかなり大きい。旅先で散逸した作品や埋もれた作品も、きっと多いに違いないからだ。また、こうしたヴァガボンドたちが世に評価されたのは、彼らの足跡を発掘・調査し、吟味した評価者たちがいたからでもある。
菊地恵子は、日本におけるケルティック・ハープ音楽、とりわけオカロラン研究の第一人者でもある。無論、ハーピストであるわけだが、敢えて研究者の側面から捉えてみるには訳がある。いまのハープ界は、フランス近代を中心にクラシック音楽を弾くことが評価に直結するような傾向がある。だが、小型ハープも入れれば、ハープの歴史は古い。人類は、色々な音楽を奏でていたはずだ。ケルティック音楽もその一部であり、しかも国中を旅して巡るスタイルゆえに資料や文献も少なく、その研究を続けるには根気と忍耐がいる。まして、誰に頼まれてやっているわけでもない。だが菊地は、すでに日本にも根差したアイリッシュの古謡を演奏し、日本人の琴線にも触れるピースを、先人の模倣ではなく日本人としてその心を演奏している。また、日本人としてケルティック音楽を表現することに腐心している。共通項もあれば、異端と思えるものもあるだろう。しかしながら、オカロランと芭蕉には何の脈絡もないと切って捨てるか、その共通の美を見出して、それを評価し、さらに自分の手になる表現としてリブートさせるか、この両者には大きな違いがある。模倣と創生を分ける重要なポイントだと思う。とかく音楽のアルバムは、演奏の素晴らしさばかりに焦点を当てるきらいがあるけれども、実は研究の成果として、そのマイルストーンを評価することをつい忘れがちだ。だから、菊地が「ハープを携え、自分の言葉でケルティック・ハープ音楽を俯瞰・紹介し、日本にも根差している佳曲の数々を目利きし、いわばとして名曲大全としてCDに収めた」のは、実に偉大な業績だと思うのだ。小難しいことを書いたが、一度内容を聴けば、「あ、これ聴いたことある!」といった場面に多く出くわすだろう。ついハミングしてしまうかもしれない。それこそが、本作を通じて問う菊地の意図なのである。
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