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オピニオン:戦争に音楽を差し出してはならない

 

「荷物は箱に詰め、身の回りの必要最低限のものだけ持って部屋を出てきた」と、そのインスタグラムの投稿は始まっていた。いまトルコへ向かう飛行機にいると。穏やかではない内容と写真に目を奪われた。頬がこけたように見えるモノクロームの写真は、アレクサンダー(サーシャ)・ボルダチョフだと判った。自分には、衝撃的な写真だった。いつもは陽気な彼の顔に緊張感が漂い、虚ろな目をしたサーシャが機内で席について真っすぐにこちらを見つめている。彼は母国ロシアを脱出してきたのだ。もはや戦時下といってよいロシアでは、空から出国するとなれば、まずトルコへ出るしかない。特に印象的だったのは、「いまの狂気は誰も止めらないが、助けが必要な人々に力を貸すことはできる。大切なのは、我々が今までの絆を堅持し、それを明日のために活かすことだ」という彼のコメントだ。投稿は一日足らずで消えており、翌日一転して「私の活動を支援してくれる皆さん、ありがとう。今は、なんとか最終目的地だったスイスに到着して、さっそく当地で赤十字主催のウクライナ支援コンサートで演奏する予定です」と、安堵した笑顔もみせる別の動画コメントを寄せていた。

 

 このご時勢で伊達や酔狂でロシアを離れるロシア人はいない。不穏な行動を採れば、当然ながら裏切者として当局からマークされる。もともとサーシャは3月、4月はヨーロッパ各地でコンサートを予定していたし、戦争初期だったせいか、空港の検閲で祖国からの決意の脱出なのか演奏旅行かは、疑われなかったようだ。だがルーブル暴落で旅費だって潤沢に調達できず、争いも激化する中、突然の空港封鎖だってあり得る。その中での行動は、生きた心地がしなかっただろう。サーシャは愛国心が強い。数年前に食事を共にした際、長い楽旅とスイスを拠点にした生活から、故郷ロシアに帰るのだと話した時の満面嬉しそうな表情は記憶に新しい。そんな彼から「実は故郷を出てくる前にも、ウクライナ難民支援のためのコンサートに出演し、スイスでも同様の支援コンサートに出る予定」とか「今後、はたして(ロシアに)戻れるかどうかは分からない」といった言葉も出てきているので、さすがに愛国者のサーシャでも今回のウクライナ侵攻については反対の立場にいるとみてよい。サーシャは、スイスの国籍も持つ二重国籍者であり、今後はスイスに居住する可能性が大きい。

 

 ロシアのウクライナ侵攻の影は、やはり音楽にも及んでいた。あの「戦争と平和」を著したトルストイの国で、これほど稀に見る戦争状態になるとは実に皮肉な話だ。サーシャの短い投稿には詳細がない。しかし、ロシアのナンバー1ハープ奏者ですら、こうした危険に晒される。有事の際に、人々の心の支えになる一番の妙薬は音楽であるはずだが、一方で国際紛争やコロナ禍などが起これば、音楽は真っ先に割を食う。すでにミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者ワレリー・ゲルギエフが、プーチンと親交が深いという理由でその任を解かれたり、チャイコフスキーの演目は今後中止という憂き目に遭っている。芸術に政治的な宣誓を強いることはナンセンスだ。「そんなバカなことが」と思いたいが、世の中は現にそういう風潮に包まれている。私たちが犯してはならない間違いとは、演者がロシア人だからと差別すること、そして戦争の犠牲に音楽を差し出さないことだ。音楽は残された最後のユートピアであり、五線紙に踊るおたまじゃくしは、差別や齟齬(そご)を受けない唯一の世界共通言語なのだから。(本誌編集長)

 

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