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イベントレポート:菊地恵子~カロランの世界~

  

 まだ東京が蔓延防止下にあった3月11日、菊地恵子が東京・内幸町ホールでコンサートを行った。アイリッシュハープで、ターロック・オカロランの音楽に特化した内容だった。コロナ禍で客足も遠のくのではと思いしや、この日を楽しみにしてきたという観客たちで会場は満たされていた。

 

 最近、アイリッシュをはじめとするケルト音楽は、もはや一過性のブームではなく、ひとつの音楽トレンドとして多分野に影響を与え始めている。これは人々の「デジタル疲れ」と無縁ではない。当世、われわれは情報の洪水のなかにいる。選択と集中、ゼロか全てか、右か左か、そんなものを求められ、中庸は半ば否定されて、いささか疲れている。特に個性的である必要もなく、人との対話ではなく、機械との対話によって仕事も構成されてゆく。そのうち機械と同様、いつしか自分も替えが効く存在なのだと達観してしまうと、モチベーションを他に求めるようにもなってしまう。そんな中で音楽、とりわけ本物の響きは、そうした人々の受け皿になっているように思える。菊地が手繰るアイリッシュハープは、シンプルな楽器だ。無論、操作が楽だという意味ではないが、音量も弾ける曲のバラエティにも欠ける。それなのに、昨今のわれわれの欠乏感の何を繕えるというのか。それはたぶん、なんでもデジタルで進む社会の中で、菊地が一意専心で臨んで積み上げた技に、まねのできない唯一無二のオリジナリティを感じるからだ。つまり、皆本物と共鳴したいのである。

 

 ゲストスピーカーの日本アイルランド協会・佐藤亨氏の話に興味深いくだりがあった。アイリッシュ音楽は、侵略・征服したイングランドの側にも、その文化の伝承に努めた人がいたという事実である。アイルランドの自然や人々によって磨かれて育まれた音楽が、他国の者にさえ冒しがたい魅力として映り、現にコンサートのテーマであったオカロランの口承音楽を書き留めるなどの作業・保護に邁進したというのである。おそらく、愚直なまでにアイルランドの正統をフォームを変えることなく日本で伝えている菊地も、真の継承者であるといって差し支えあるまい。

 

 菊地の演奏は、達筆の一筆書きである。潔く、正直だ。当日は演目の順番を変えたり、指の不調もあって途中で演奏を中座したりもするが、ありのままを衒(てらい)もなく弾き切る。ある意味、天衣無縫で演出は皆無なのだが、観客もそれを楽しんでいる。もちろん自分もその一人だ。代表曲の「オカロランのコンチェルト」は除き、プログラムの曲目を眺めていて素人ながらふと考えたのは、曲名になんと人名が多いのだろうということ。アイルランドで当代随一の吟遊詩人であったカロランは、旅先で多くの人のサポートを受け、スポンサーになってもらい、たぶんその御礼とか感謝の意を込めて、寸曲を捧げてきたに違いない。そうした賛辞を曲によって捧げられた側は、どんなに嬉しく、誇らしかったことだろう。インターネットもない世の中、旅先で今度はいつ会えるやも定かでない。演奏する方も聴く方も、きっと万感込めてその場に居ただろう。そんな場で、やり直しはあり得ない。“菊地の一筆書き”は、そんな吟遊詩人の精神土壌やマナーも受け継いでいるのかもしれない。拍子抜けするようなシンプルで、牧歌的なメロディは、この無機質な時代には稀有な「人肌の音楽」と観客には映る。素朴な行間に、自分の些細な感情をそっと置いておけるスペースがあるように思えるから。しかも、菊地本人はどこまでも真面目に、小難しいことなど考えず、マイペースでコンサートを進行するため、いつしかある種のギャップ萌えも秘かに楽しんでいる自分がいる。コロナ禍で半ば閉じた会場で、限られた入場者しか入れないことを知りつつつも、なぜ皆このコンサートに往くのか。熱狂とか技巧を凝らした演奏とか、そういったものではなく、研究を積み上げた菊地が発する素朴なケルトの調べにただ寄り添いたいからに違いないのだ。(本誌編集長)

 

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